連載
てくてく歌う
中川順一
5 歩いて歩いて
妻と線路横の道を通って家に帰った。ゴーっゴーっと頻繁に電車が通る。妻が何か言ったが、うるさくてよく聞こえないと言うと、この時間帯はいつもそうなのだという。「だからね、この時間にここを通るときは、いつも歌を歌ったりする」のだという。「やめろよ。近所の人が見たら変だと思うぞ」と言ったら、「この前、同じマンションの人が後ろから追い抜いて行ったから、聞かれたかもしれない」と。何の歌を歌っていたかは教えてくれなかった。
子供の頃、吉永小百合が「あの娘はいつも歌っている」と歌っているのを聞いて、馬鹿なんじゃないかと思った。しかし少し大人になって、酒を飲んだ雨の日、この歌を歌いながら歩いたことがある。「いつでも夢を持とう」と自分に言い聞かせたい悲しい夜更けだった。コーラスも自分でやりながら、星より密かに雨より優しく歌ったつもりだったが、サビの部分でつい声が大きくなった。すると、すれ違った人が傘を上げてこちらを見た。聞かれたかもしない。顔も見られたかもしれない。橋幸夫のパートだった。
以来、悲しい夜更けに限らず、道で歌う時は声を出さないように心掛けている。だが、最近は老化が激しいから、声が漏れているかもしれない。まあとにかく、歩いて歩いて。
『いつでも夢を』(1962年)
唄・橋幸夫、吉永小百合 詞・佐伯孝夫 曲・吉田正
4 南へ歩く
欧陽菲菲といえば『ラブ・イズ・オーバー』の人だと若いホステスも知っているが、あれは『うわさのディスコ・クイーン』のB面だったんだぜ、と言っても誰も知らない。♬う、う、うわさのディスコ・クイーン、帰って来たんだよ~♬。なぜ、帰って来たかというと、1971年に『雨の御堂筋』で日本デビューした欧陽菲菲は、その後『雨のエアポート』のヒットを飛ばすが、それからちょっとの間、レコードはそれほど売れなかった。そのような中で1979年、作詞家・伊藤薫の作品で帰って来たんだよ。
で、B面のほうがだんだん評判になり、翌年、『ラブ・イズ・オーバー』をA面にしたレコードが発売される。B面は『へんな女の独り言』。彼女のデビュー当時、小学生だった僕は、へんな日本語を喋るお姉さんだと思っていたが、この曲は最近、YouTubeで初めて聴いた。『ラブ・イズ・オーバー』の裏面とは思えない曲だ。ここまで話す途中、若いホステスが「A面B面って何?」と聞いたが無視した。
『雨の御堂筋』を聴いていた小学生にとって不思議だったのは、小糠雨が降る中を♬あなたをしのんで南へ歩く♬ところ。菲菲お姉さんが南国・台湾の人だということは知っていたが、台湾には歩いては行けないだろう、と。
社会人になって初めて大阪に出張した時、御堂筋は南北に通っていて、北は梅田で南は難波。北はキタで高級クラブがあり、南はミナミで庶民的な飲み屋が多いとイントネーションとともに教わり、13年間にわたる疑問が氷解した。菲菲お姉さんは「アナタハドコヨ」と言いながら、ミナミへ向かって歩いたのだ。教わった場所は宗右衛門町のスナックだったが、きっと来てねと泣かれることはなかった。
『雨の御堂筋』(1971年)
唄・欧陽菲菲 詞・林春生 曲・ザ・ベンチャーズ
3 歩いても歩いても
昔から何となくイメージの良い町というのはある。横浜もその一つで、東京の近くでありながら、東京に対峙するブランド力が持っている。そういう町には、町の名を冠したり挿入された歌謡曲もたくさん作られる。小学生時代、同じように東京の隣の県庁所在地でありながら、どうしてこうイメージが違うのかと思った。『よこはま・たそがれ』はカッコいいお兄さんとお姉さんで、『うらわ・たそがれ』だと疲れたおじさんの感じになるのはなぜだろかと、さいたま市民となる前の浦和の小さな市民は思ったものだ。
横浜の曲と言えば、なんといっても『ブルー・ライト・ヨコハマ』だ。いしだあゆみの鼻にかかった歌い方を真似していたが、とてもキレイな横浜のブルーライトの灯って、浦和の街灯とどう違うのだろうかと考えていた。大人になってブルーライトは目に悪いと知り、それをカットする天眼鏡代わりのハズキルーペを買ってみたが、かけるたびにホステスのお尻を思い浮かべていた。きゃッ。
昭和40年代の初め頃、浦和の郊外の小学校では徒歩遠足というのがあった。学校から荒川のほうにてくてく歩くのである。ふつうの遠足と違って目的地で何か楽しいことをするわけではなく、ただ歩いて途中でお弁当を食べて、そして帰ってくる。当時、荒川に架かっていた羽根倉橋は木造冠水橋で欄干もなく、大勢が歩くと揺れているような気がして怖かった。先生がみんなで何か歌おうと言ったが、僕はその前からずっと頭の中で『ブルー・ライト・ヨコハマ』を歌っていた。♬歩いても~歩いても~♬で、私は揺れていた。
『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)
唄・いしだあゆみ 詞・橋本淳 曲・筒美京平
2 泣くのが嫌ならさあ歩け
江戸時代の男性の平均歩行距離は1日10里、40キロ弱だったらしいと知ったが、水戸黄門は計約10万9000kmを歩いたという。もう少しで地球3周……テレビ時代劇のあのご老公様のことで、もっと昔の月形龍之介や最近の武田鉄矢の分はカウントされていない。本物の水戸光圀は、江戸と水戸110kmを何回か往復した程度だ。
1日40kmも歩くというのは、どんな感じなのだろうか。ご老公一行はべちゃくちゃ喋っているが、年寄りがあんなに話しながら歩いていたら疲れるだろう。八兵衛、少し静かにしなさいとか言いながら、黙々と歩いていくんだ、しっかりと。
調べると、江戸時代の旅は今のお散歩やハイキングのように気楽ではなかったらしい。ちょっと人里を離れれば道は悪いし、獣も出れば山賊も出る。考え事をしたり、由美かおるの入浴シーンを想像していたりしたら怪我をするし、下手をすれば命に係わる。スタジアムをぐるぐる歩くようなスピードでまわったやす子とは違う。警戒を怠らず、それでもリラックスするために頭の中で歌でも歌っていたのかしら。
打ち合わせの時間が迫っているのにタクシーが捕まらない。とにかく歩くしかないという時、決まって頭の中で流れるのが水戸黄門の歌である。
とにかくあのメロディーが浮かんでしまったら、もうダメだ。♪ジャン、ジャジャジャ、ジャン、ジャジャジャ、人生~♪ 『木下恵介アワー』で子供の頃から馴染んでいる木下忠司の曲はいつも同じメロディーだが、あのテンポで人生について語られてしまうと、ついついいろいろ考えてしまう。60年以上の人生、後から来た奴に追い越されてばかりの人生だった。いや、涙の後には虹も出るかもしれない。
いかん、そんなことを考えている場合ではない、打ち合わせの時間が迫っている。
メロディーが離れないなら、歌詞を変えればいい。あれは五七調なので、『うれしいひなまつり』や『どんぐりころころ』に入れ替えても歌えるぞと誰かに教わったのでやってみる。『ギザギザハートの子守唄』の入れ替えはちょっと難しいから、今度、カラオケで練習しよう、などと、そんなことを考えている場合ではないのに、♪ジャン、ジャジャジャ、ジャン、ジャジャジャ、どーんぐりころころどーんぶりこ♪。打ち合わせ時間は迫っている。泣くのが嫌なら、さあ歩け。
『ああ人生に涙あり』(1969年)
唄・杉良太郎、里見浩太朗ほか助さん格さん俳優 詞・山上路夫 曲・木下忠司
1 休まないで歩け
幸せは歩いて来ないから自分で歩けと水前寺清子に言われて育った。1日1歩ずつで3日で3歩、でも3歩進んで2歩下がる。これは小学校の教室でも話題になった。よくわからないので黒板に書いてみんなと確認したが、3日目に3歩目になったらすぐ2歩下がるから3日目は1歩の場所だ。で、4日目に2歩目になって5日目は3歩目だから2歩下がる。月曜日に歩き出して金曜日になっても1歩なのである。
まだ理不尽も不条理も知らない少年だったが、やっぱりこれは変だと思ったものである。
歌の最後に、チータがワン・ツー・ワン・ツーと連呼するのは、1歩と2歩しかないよと教えているのだと理解したのは、格好をつけてドストエフスキーを読んでいた青春時代になってからだ。
そのようにして前進のない人生を歩みながら還暦となった今、メタボなのだから1日8000歩は歩けと言われている。千里の道も1歩からというが、8000歩は5.8キロ。歩幅72センチの計算になるが、俺は背は低いが足は長いぞと、無理に大きな歩幅で歩こうとすると、日常生活ではいつも半分の4000歩にも満たない。
家から職場まで徒歩14分。1.1キロ1536歩、消費カロリーは51.9キロカロリーとスマホに表示される。往復歩いたって3千歩にしかならないなと、とんかつ定食・約900キロカロリーを食べながら思う。
江戸時代の男性の平均歩行距離は1日10里、40キロ弱だったらしい。日が昇ってから落ちるまで、休憩を除いて約10時間歩いたとすると1時間に4キロ。1時間だけなら楽勝だが、2時間も歩いて職場に行ったら、疲れて仕事にならない。
コロナ感染が始まりジムに行くのを止めたので、その分1時間余計に歩いて職場に行こうと思ったが、すぐに挫折した。朝の連ドラが案外面白くて、それを見てから1時間歩くと遅刻するからだ。「エール」から「カムカムエヴリバディ」の間に、体重は5キロも増えていた。歩くのはやめたがとんかつ定食はやめなかった。人生はワン・ツー・パンチである。休まないで歩け。
ちなみに水前寺清子は、最初この歌を歌うのは嫌だったそうだ。歌詞の中に「ワンツー」と英語が出てくるようなものは、本格派演歌歌手としては歌うべくではないと考えたという。だとすると、歌い終わって「thank you」と叫ぶ堀内孝雄は、フォークシンガーだな。
『三百六十五歩のマーチ』(1968年)
唄・水前寺清子 詞・星野哲郎 曲・米山正夫